兵庫県立粒子線医療センター
ニュースレターNo.26
July 2008
CONTENTS
■□ がん医療の課題
■□ 2007年度治療実績の報告
■□ 新人紹介
■□ 退職を迎えて
がん医療の課題
院長 菱川 良夫
“患者さんか患者様か” 医療は、医学研究が一般化したものです。病人の治療では臨床研究が関与しており、臨床研究の一般化した医療では、医師が中心となり病気を治す努力をしてきました。したがって、医療はパターナリズムとなり、病人に対して、「私に任しておきなさい」という医師主導の医療が行われていました。しかし医療事故などが報道され、治療される病人が、自分の医療はこれで良いのだろうかという疑問を持ち始めたことで、パターナリズムの弊害として、医師と病人の対立が生じてきました。また、この時期に米国流に医療もサービス業の一つと考えることが始まりました。病人である患者は、サービスを受けるのだから患者様であり、サービスの内容にクレームをつけるのが当然だという考えも出てきました。医療側も医療はサービスと考え、患者様と呼ぶことを積極的に始めました。しかし、昨今の医療崩壊を見ていると、医療側と患者側が助け合っていく、互助的医療のほうが、日本に向いているように思われます。粒子線治療のような装置で行うがん治療では、医療側と患者側のコラボレーションが、がんを治す上で重要です。例えば、治療は、治療台上で行うのですが、そこでは、静かに横になったり、呼吸も整える必要があります。これらのことは、治療の内容を理解された患者達の協力なしではできません。そこで、当センターでは、開設時よりがんを中心にして、医療スタッフと患者が協力をする新しいチーム医療でのがん治療を進めてきました。したがって、チーム仲間の「患者さん」は、「患者様」でないと考えています。難治がんを高度な装置で治療する場合、医療側だけの努力で治るものではなく、治療を受ける患者さんの協力が非常に大事です。
“プロセスか結果か” 日本の社会は、茶道を例にすると、できあがったお茶でなく、その前の過程(プロセス)を大事にする国で、そのことが国民性となっていました。製造業での製品の質は、プロセスに関係しますが、この国民性が生かされて、非常に精度の高い製品が作られてきました。日本の得意とする、自動車産業では特にそれが顕著で、製造過程の見直しを現場ですることで、効率良くしかもすばらしい製品を提供してきました。しかし、昨今の金融業が製造業に優先する社会では、プロセスではなく結果を重視する風潮になってきています。結果が良ければ、プロセスはどうでも良いという風潮です。このような風潮は、医療の世界でも起こってきており、結果を厳しく追及される、小児科、産科での医師不足が顕著になってきています。すなわち、医療においては、プロセスが正しくても、病気が原因で期待に反した結果が生ずる事があります。その不幸な結果は、当事者である患者さんや家族にとっては、納得できない場合が多く、「患者様を治療するサービス医療」では、医療、特に医師へのクレームが起こります。このことを見ている医学生や若い医師は、そのような立場になりたくないと考えますので、それらの診療科の医師不足の原因の一つになってきています。当センターでは、定期的に院長懇話会で、医療はプロセスが重要であり、そのプロセスを良くすることで、結果も良くなると患者さんにお話をしています。また、放射線技術科長が、装置の見学会を定期的に行い、プロセスの一部である装置を見せるようにしています。これらを通じて、医療に本当に大事なのはプロセスであることを理解される患者さんが増え、患者さんもそのプロセスの一部である治療後の経過観察で、画像や血液のデーターを治療後の結果として報告することで、将来の治療のプロセスを良くする事に協力している実感をもたれます。良い医療は、患者さんの協力なしではできません。
“良い生き方” がん患者さんの多くは、がん=死という結果イメージをお持ちです。院長懇話会や講演会で強調していることは、「全ての人が死ぬ運命で、がんの方だけが死ぬのではない」ということです。この言葉はがん患者さんにとっては新鮮な様で、当たり前の事なのですが、がんという病気になったことで、本人も家族もうっかり忘れてしまうようです。がんは、あるところまでは、現在の医療で治せます。しかし、あるところを超えると、現在の医療では治癒困難と成ります。しかし、そのような状態でも良い生き方はできます。がんと仲良く生きることも良い生き方の一つであることを理解していただくことで、本人や家族の心の苦しみを取ることも大事と考え、当センターのスタッフには、優しい気持ちを持つ医療者になってもらうことを、機会がある度に言うようにしています。
新人紹介
この4月、医療スタッフ6人が当センターに配属されました。それぞれの抱負を語ります。
自分の一生の仕事― 癌治療
寺嶋 千貴(医師)
この4月から当センターに勤務しています。以前は兵庫県の市立加西病院で4年間勤務し、放射線科業務一般、特に血管造影による治療、癌に対する化学療法を中心とした仕事をしていました。
その中で、特に強く感じたことは、都会、田舎にかかわらず、いわゆる「癌難民」となってしまっている患者さんがなぜこんなに多いのだろうかということでした。原因は様々ですが、一番の原因は、勤務医の激務化によって患者さん一人一人への診療時間が短くなってきていることではないかと思います。
また、患者さんも都会の病院に集中しすぎるため、さらに状況が悪くなっているのだろうと思います。都会では患者さんが集中することで充実した診療ができなくなり、一方、患者さんの来ない田舎では病院がどんどんつぶれていきます。つぶれないまでも、患者の減った病院への医師の派遣は少なくなり、継続した医療ができなくなります。そうなると医療の質は確実に低下していきます。結局、都会へ行った患者さんは、いざというときに戻る病院がなくなってしまうということになります。
そのような現実を見ている内に、「自分の一生の仕事は癌治療だ!」と思うようになりました。そのために癌治療の勉強をもっとしたいを思っていたところ、粒子線医療センターへの転勤の話をいただき、喜び勇んで勤務をはじめたところです。
当センターには様々な患者さんが来られますが、今まで自分の培ってきた知識や技術を生かしながら、なるべく良質の医療を提供できるようにがんばっていきたいと思っています。
粒子線治療にたずさわって
岩田 宏満(医師:専攻医) (名古屋市立大学大学院 放射線医学分野)
この4月1日より、半年間、専攻医として、臨時職員という形で赴任しています。
現在、名古屋市では、安心して生活できる福祉・安全都市の実現に向け、「21世紀の市民のQOL(生活の質)を支えるまち」を目指し、先導的プロジェクトのひとつとして、クオリティライフ21城北の整備を現在進めています。平成22年には、西部医療センター中央病院(仮称)が完成予定で、その敷地内に平成24年3月陽子線治療施設を開設予定です。市民に陽子線がん治療を提供し、一人でも多くの市民のがんをQOL
高く治癒し、速やかな社会復帰と「いきいき」とした暮らしを支援することを目的としています。この将来予定している陽子線治療施設での診療に向けて、名古屋市立大学放射線科として第1号の研修をさせていただく形となりました。
私は、医学生の頃より、放射線治療に興味を持っており、将来は放射線治療医としてがん治療に携われればと思っておりました。卒業後より、放射線治療の高精度治療に多く携わってきましたが、粒子線に関していえば、ずぶの素人です。2ヶ月半たった今でも、粒子線の基礎となる物理や、照射に関して知識が足りなく、またX
線治療とは異なった治療方針にまだまだ戸惑うことが多々あり、当センターの医療スタッフの方々に様々な事に関して教授いただく日々を過ごしています。当センターでは患者様の表情・雰囲気がどことなく明るく感じます、緑豊かな自然環境の中に所在しているせいもありますが、やはり期待・希望をもって治療されているからでしょうか。「病院らしくない病院」という印象を強く受けました。
将来、粒子線治療の一役を担っていけるよう、日々、切磋琢磨していきたいと考えています。
 名古屋市立大学病院 |
今年も新人になりました
片平 慶(診療放射線技師)
私は平成19年1月から臨時職員として勤務し、この4月から兵庫県職員として正式に採用されました。
私の実家は広島にあり、18年3月に大学を卒業し、4月から広島大学病院診療支援部の非常勤職員としてX
線や電子線を用いた放射線治療の仕事をしていました。その側ら休日を利用して大学院にも通っていました。
大学院では粒子線治療に関する研究テーマを考えていました。そのとき当センターの存在を知り、何か研究ができないだろうかと考え、何度か見学をさせて頂きました。
その中で、「こちらで働きながら研究テーマを見つけてみては?」と声をかけて頂き、兵庫県に来ることを決意しました。
こちらに来てからの生活はとても充実しています。日々の仕事を通じて技術科の先輩方から粒子線治療について教えて頂き、加速器業務のスタッフの方々には、装置の勉強会を開いて頂いたりと、様々なことを学ぶことができました。また、研究の方も順調に進めることができ、20
年3月に修士課程を無事に修了することができました。
放射線治療の仕事はとても奥が深く、様々な知識や経験が必要とされます。そのうえ、私の仕事が治療の成績に直接関わるためその責任も大きいものです。だからこそやりがいのある仕事でもあり、知識や経験はまだ2年足らずですが、治療に対する気持ちは誰にも負けないつもりです。この気持ちをいつまでも持ち続け、知識や経験を広め、今以上に兵庫に来ることを決めてよかったと思えるよう、当センターそして治療連携施設へ貢献していければと考えています。
勤務するにあたっての抱負
山下智弘(医療物理士)
私は平成20年4月より兵庫県の職員として採用され、当センター装置管理科で勤務することとなりました。
これまで、私自身は博士過程までは高エネルギー物理学を専攻し、陽子を含む素粒子について実験的な研究をしてきました。高エネルギー物理学では、実験で使われる粒子検出器の研究開発もされます。例えば、粒子が検出器のなかでどのように振る舞うかをモンテカルロ法によって研究しました。その研究は、検出器を人体に置き換えて粒子として陽子を選ぶと、陽子線治療の人体での線量分布に応用できます。
2007年からは、科学技術振興機構の高度放射線治療のためのシミュレーション基盤の開発のグループに参加し、それ以前とは目的がずいぶん違う、しかし手法が似た研究を始めました。その研究をしていくなかで、これまでの経験を活かして粒子線治療の精度改善に貢献できればと考え、当センターでの勤務を志望しました。
当センターでは、私がこれまでに勉強、研究してきたことを活かして粒子線治療の改善に貢献するとともに、これまでの経験を生かすだけでなく、粒子線治療を含んだ新たな放射線治療について積極的に勉強し、それを粒子線治療の更なる改善に是非とも役立てたいと考えています。
粒子線医療センターに就職して
田中 敬子(臨床検査技師)
私は、今年の4月からセンターで臨床検査技師として勤めています。
センターには臨床検査技師の先輩はおらず、初めての臨床検査技師として毎日忙しく働いています。私の主な仕事は、外来患者さんの採血や尿検査の採取、便検査の受け取りといった検体検査に加え、心電図や聴力検査、肺機能検査、超音波検査などの生理検査を行っています。
私は学校を卒業したばかりで右も左も分からない状態でしたが、やさしい医師やベテランの看護師さんといった、たくさんの方に指導していただき、他のそれぞれの職種の方々と連携をとりながら、日々、業務をこなしています。
そして、最近では院内緊急検査として、今までなかった院内での血液検査を行うようになりました。まだ検査項目は少ないですが、これから必要に応じて、もっと院内で行える検査を増やしていきたいと思っています。
また、私がこのセンターに就職してとても気に入っているところがあります。それは、センターの周りが大自然に囲まれており、とても空気が良いことです。緑がたくさんあり、シカやタヌキといった野生の動物を見ることもしばしばあります。入院患者さんも元気に散歩に出ておられ、その姿を見て、とても環境の良い施設だなあと実感することができました。都会では味わえない、自然の空気の中で、のびのびと治療に励めるこの施設はとても貴重なのではないかと思います。
私もこの大きな自然に囲まれたこのセンターで、立派な臨床検査技師へと成長できるように頑張っていきたいと思います。
「減塩食」は健康のひけつ
門積 和可(栄養士)
5月に病棟訪問も兼ねて患者さんへ食事内容についてのアンケートを配布させていただきました。その回答で多かったのは、『味が薄い』との事でした。国民の栄養所要量では1人1日当たり10
g未満とされています。当院の院内基準(常食)も10
g未満に設定しています。とは言うものの、入院患者さんには「食事だけが楽しみ」と言う人も多く、いかに美味しく、楽しく食べてもらうかが重要です。
塩分の取りすぎは高血圧の大きな原因の一つで、心臓病・脳卒中の危険因子です。また過剰摂取は胃がんの要因となることも知られています。減塩は、こうした重大な病気から身を守る為にも必要なのです。最近よく聞く「メタボ」も予防でき、ダイエットしたい人にもお勧めです。始めは美味しくなく感じて塩・醤油など足したくなりますが、しばらくすると慣れてきます。調味料の味になるべく頼らないで、薄味に慣れてくると、素材の持ち味がわかるようになります。
食事を提供する側としても、特別メニューの導入・味付けはもちろん見ても楽しめるなどの工夫を凝らして喜んでいただける食事作りに努めていきます。
最後に、これだけ健康ブームになりいろんな健康方法が取上げられる世の中になりましたが、糖尿病や高血圧などの生活習慣病の患者は増え続けています。私たち栄養士はその人にあった食について、正しい知識をアドバイスできればと思っています。
退職を迎えて
この3月、定年退職に際し、開設までの経緯や苦労談、病院に対する思い出を中心に語っていただきました。
さらなる飛躍へ
前事務部長 前田 実男
今から7年前の平成13
年3月末に「テクノに新しくできた県立病院へ」との内示を受けた。 その当時の職員録を見ると県立病院局経営課に“県立粒子線治療センター整備室”があり17
名の職員が配置されていた。早速、その整備室の職員からセンターの概要や4月からの行事予定等の説明を受け、翌日、新宮町光都にある「粒子線医療センター」を案内してもらった。山の中に工場のような建物を見たとき、とても病院とは思えなかった。玄関を入ると高い屋根とガラス張りの明るいホールはまるで「リゾートホテル」のようであった。壁面に掲げられた「天の川幻想」は、地元新宮町の陶芸家芳野俊通氏作の陶板とのことで、優しく迎えてもらい大変感銘を受けた。また、病棟への渡り廊下の両側に池が配置され、静かな療養環境への配慮に驚いた。これが「病院らしくない病院」なのか。
13年5月から治療装置の製造承認を得るための陽子線の臨床試験(治験)が始まった。治験の合間をぬって医療関係者への治療装置の説明を何度も聞いたが、機械のことは皆目分からない。10万点以上のパーツから構成され、甲子園球場のグランド面積に匹敵する広さを有する“とてつもない代物”であることだけは分かった。
陽子線の治験が14年1月に終了し、これを機会に14年10月に国内外へ粒子線治療に対する理解を深めてもらうため「国際粒子線治療シンポジウム2002in
兵庫」が淡路夢舞台国際会議場において開催された。国内外の粒子線治療施設から7名の演者による講演が行われ、中国、韓国を始め7カ国の医療関係者のご参加をいただいた。言葉には大変不自由したが、成功裏に終了することができた。 14年10月末には、治療装置の製造承認が下り、15年4月から陽子線の一般診療が開始されることとなった。まずは第一関門突破である。 この後、炭素線については、17年1月に治療装置の製造承認が下り、3月から一般診療を開始している。 さらに、陽子線は16年7月、炭素線は17年5月にそれぞれ高度先進医療の承認を得ることができ、入院・検査料等について保険適用となった。 16年4月には、放射線科を医師部門と技術部門に分割し、新たに放射線技術科が設置され、医療技術者の責任の明確化と指示命令系統の確立を図ることとなった。このことにより、治療装置の稼働面においては、障害発生時における復旧時間の短縮化を図るための「保守ネットワーク」の開設、年間を通して治療を行うため、保守点検を年1回から毎月4〜5日に分散して行う「治療装置の保守分散化」の実施、核種・エネルギー切替時間の短縮化など数多くの治療効率の向上についての取り組みが行われた。このことが治療装置のすばらしい進化につながり、国内外の粒子線治療施設から高い評価を得ている。 また、患者確保対策の面では、医療関係者等への講演など粒子線治療成績のPRや当センターでの治療終了後の経過を紹介元病院と共同で観察する「経過観察業務」への積極的な取り組みにより、紹介元病院数は、16年3月末に128病院であったのが、20年2月末では、480病院と約4倍に累増している。 これらの取組により、治療患者数は、15年度250人、16年度294人、17年度360人、18年度514人、19年度594人、5年間で、2,012人と当初目標を大幅に上回っている。18年度から引き続き資金収支は黒字となり、単年度黒字も目前となっている。第二関門突破である。
今後、粒子線医療センターに期待するものは、 @治療装置の年間を通しての安定稼働 A治療効率の向上による1日100名の治療の実現 B高精度治療開発による治療成績の向上 C後発の粒子線治療施設との治療中断時における相互 治療連携の強化 D治療患者数の大幅な増加による経営成績の向上 など、これまでどおり職員一丸となって取り組めば、必ずや達成できると確信している。
この3月末をもって退職することになったが、皆様方のこれまでのご尽力に感謝し、県立粒子線医療センターの“さらなる飛躍へ”の祈念を申し上げる。
今は昔の話など 定年退職を迎えて
前装置管理科長 板野 明史
私は長年の間、科技庁放射線医学総合研究所・医用重粒子物理工学研究部で重粒子線がん治療装置HIMACの建設に携わってきました。その放医研での臨床試行が始まった1994年6月に、兵庫県保健環境部地域保健課粒子線治療施設担当として転職してきました。 研究部に長年居たせいか地域保健課と言う名を聞いたときには、なるほど県庁ではこう言う受け皿になるのかと面白く感じたことを憶えています。 私が携わったのは、装置施設建設、運転調整、コミッショニング、臨床試行と一般治療での装置運転維持管理と様々でしたが、その間、県内外の多くの人々の支援を受けて何とか順調に各段階を過ごして来られました。 現在、1日の照射患者数が平均50人を超えています。まことに運良く周りの人々に助けられて来たのだなーと思います。「運も実力の内」と世に言いますが、実際そう言って慰めてくれた人も居ます。
ここからは、折々にお世話になった方々を思い浮かべながら、余り触れられていない開設に至るまでの経緯を中心に振り返って見たいと思います。 先ず、このプロジェクトを発案し諸委員会での議論を経てスタートさせ、私に新たな仕事の場を与えて下さったのは(当時の)貝原知事、木村名誉院長、阿部京都大学教授(後に成人病センター総長)、平尾放医研医用重粒子物理工学研究部長(後に放医研所長)の皆様です。そのお蔭で、私は物理屋らしく設計製作の業務に専念することができました。 1996年には、菱川参事(現在の粒子線医療センター院長)、放医研の金井主任研究官との3人連れで、欧州粒子線治療施設の視察に派遣していただき、チューリッヒPSI
原子核研究所、ジュネーブCERN 欧州原子核研究所、ダルムシュタットGSI
原子核研究所、ハイデルベルグがんセンターを周り、粒子線治療国際シンポでは、この兵庫プロジェクトについて、ポスターと講演で発表しました。 日本では放医研に続いて2台目の炭素線がん治療専用加速器装置と言うことで、物理用加速器にぶら下がった実験段階でこれから専用加速器施設の予算を獲得したいという欧州勢にとっては頼もしく思えたのか関心も高く、こちらの知りたいことにも積極的に答えてくれました。そのヨーロッパでは、ミラノとハイデルベルグで、今やっと炭素線治療施設が完成を迎えようとしています。 帰国後は三菱電機と装置設計書に基づいて製作発注価格の協議を開始しました。最初の三菱提示価格を放医研での製作費実績を参考にして理詰めで交渉し、科技庁からの補助金を予算化することで、製作仕様と契約価格を決定することができました。 装置製作段階に入ってからは、がん治療装置製造受託会社三菱電機神戸製作所と尼崎通信機製作所それから協力会社の住友重機、東芝、日立造船ほかの技術者と入れ替わりでほぼ毎週製作仕様決定のため技術打合せを行いました。詳細を詰めるとメーカーにとって、想定外の費用が発生し、社内での承認に苦労されたと思うのですが、損して元を取れが会社側の方針だったのでしょう。治療段階で医療用具が不具合を起こせば、兵庫県も三菱電機も困るわけで納得の行く議論があれば、実現させようと言う覚悟を持っていてくれたのかも知れません。 放医研、東大、阪大、京大、筑波大、東北大、姫工大、高エ研の諸先生方には、各種委員会、学会での討論だけでなくメーカーとの打ち合わせに出席下さった方もあり、有益な議論補強をして頂きました。 装置の形が決定し、入れ物の照射治療棟の設計建設が始まり、県都市住宅部の営繕課、設備課担当者には、原子炉と同じ遮蔽規制を受ける未経験の建て屋設備建設に積極的かつ柔軟に対応して頂き、同時に、建て屋設計・建設請負い会社と三菱電機との調整をスムースに行って頂いたことを感謝しています。 ビーム試験の段階では、三菱電機と加速器エンジニアリング(AEC)の運転員が、日夜ハードスケジュールでビーム運転調整を行い、素早いビームコミッショニングに漕ぎ着けてくれました。 開設後も、治療機能の充実に向けて、放射線技術科をはじめとして、医療側の改良要求を前面に押し立てて、機能アップを次々と実現させ、装置の根性を叩き直して来ました。こうした取組の結果が、今日、1日最大85名の治療照射を可能としました。これらは勿論、照射スキル向上によることが大であって、医師、看護師、事務の方を含めて、直接医療に従事する人達の献身的態度によって成せるものです。
最後に、私の仕事の集大成とも言える様々な思いの詰まった粒子線医療センターが、世界に開かれた施設として、また、新しい粒子線治療の情報発信地として発展することを、陰ながら応援しています。
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